医療・研究倫理について
ひとの命や健康に関わる「医学研究」。研究参加者への安全上・人権上の配慮はもちろんのこと、研究対象にヒトゲノムが加わって以降は、個人情報の管理の厳格化も求められるようになりました。さらには、後を絶たぬ研究不正が医学研究の社会的信頼を損なっているのが現状です。つまり、医学研究に従事する者の「倫理」が、これまで以上に問われているのです。
しかし、医学研究における倫理とは、一体どういうものなのでしょうか?
“なんとなくわかってるけど……”と、理解の曖昧な方も多いのではないでしょうか。もちろん、研究従事者だけでなく、研究と関わりのある企業の方、そして一般の方にとっても、これは大切な問題です。 そこでこのサイトでは、いま注目を集める「研究倫理」について、できるだけわかりやすく解説していきます。
一般の皆様へ医療・研究倫理とは
医療・研究倫理コラム医学研究と社会をつなぐ
1. 倫理とは?
「倫理」という言葉に、どのようなイメージを持っているでしょうか?
広辞苑を紐解くと、倫理とは、「礼記」(らいき)という中国の古典に出てくる言葉で、“人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳。”とされています。
ちなみに、倫理の2文字を分解してみると、
倫=仲間・人間・世間
理=物事の道理・筋道
つまり、倫理とは、人の世の筋道、道理、もっと平たく言えば、“人間にとってふさわしいあり方や振る舞い方”だと言えます。
ちなみに日本では、明治時代に西洋から入ってきた“ethics”(エシクス)という言葉の訳語として当てられたのが、倫理という言葉の最初だといわれています。
2. 医療に求められる倫理とは?
倫理には、立場や職業に応じて、様々な種類があります。例えば政治家には政治倫理、企業には企業倫理があります。これは、その立場や職業にある者が、絶対に守らなければならない規範です。
医学にかかわる者にとって大事なのが「医療倫理」です。この医療倫理は、さらに以下の3つの倫理に分けることができます。
a、研究倫理
研究活動に際して研究者が守るべき規範で、主に研究参加者への説明、人権やプライバシーの保護、公正な研究活動などが挙げられる。
b、臨床倫理
主に医療現場で求められる規範で、インフォームドコンセントや患者の輸血、治療拒否、終末医療に対する医師の判断やあり方のこと。
c、公衆衛生倫理
疫病予防など公衆衛生の場で求められる倫理。例えば鳥インフルエンザ発生時の、感染予防と社会活動の制限の秤のかけ方など。
これらの中でも、いま、
「研究倫理」への深い理解が求められています。
3. 「研究倫理」は“社会とのつながり”
というのも、大学や研究所といった閉じた空間と、一般社会との繋ぎ目に「研究倫理」があるからです。
例えば、近ごろ話題のVR(virtual reality)ゲーム機の開発では、人間の視覚に関する研究が、高級化粧品の開発では、ナノ技術が人の肌に与える研究などが、それぞれ活用されており、一般的な工業製品の開発にも医療研究が関わっています。
また、個人の遺伝子情報は、遺伝子検査の普及などで、簡単にやりとりされるようになっています。
つまり、以前よりも研究倫理が身近な問題になっているのです。
研究倫理に関しては、過去に以下のような重大な事件が起こっています。
戦時中の非倫理的人体実験
- ナチスドイツによる人体実験(低圧実験や毒ガス実験など)
- 旧日本軍による人体実験
戦後の非倫理的人体実験(日本)
- 名古屋市乳児院収容児人体実験(1952年)
特殊大腸菌研究のため、乳児に大腸菌を投与。重態や死亡した乳児もいた。 - 新潟大学恙虫人体実験(1952-55年)
入院患者119名に対して恙虫病菌を投与。8名が死亡し、1名が自殺。 - キセナラミン事件(1963年)
製薬企業が従業員207名を被験者として行った抗ウイルス未承認薬キセナラミンのプラセボ対照比較試験。17名が入院、1名が死亡。
戦後の非倫理的人体実験(海外)
- ウィローブルック事件(1950年代)
肝炎ウィルスの伝播様式を調べるために、精神疾患を有する児童に対してウイルスを投与 - ユダヤ人慢性疾患病院事件(1960年代)
免疫応答の低下が癌の進展に及ぼす影響を知るために、認知症の高齢者に対して癌細胞を投与 - タスキギー梅毒研究(1934-1972年)
アラバマ州タスキギーで黒人男性約400人を対象に政府機関主導で行われた梅毒の自然経過観察実験。治療と称して、腰椎穿刺を特効薬(ペニシリン)開発以降も行った。
研究倫理に反する行為は、時に人々の健康や命をも脅かしかねません。また、研究や研究者そのものに対する世間の信頼を失墜させます。
つまり、研究倫理は、決して断ち切ってはいけない、“社会とのつながり”なのです。
では、どうすれば、研究倫理を遵守することができるのでしょうか?
ヒントは“振り子”です。
研究倫理の振り子は、どちらに偏っても、健全な科学の進歩は望めません。
しかし、研究者は、“科学の進歩に貢献したい”という熱意で日々研究を行っているので、“研究ファースト”に陥りやすい──。
一方、研究参加者は、専門知識に明るくなく、医師や研究者を信じやすい傾向にある──。
必要なのは、公正な「第三者の目」です。
4. いま、求められる「第三者の目」
研究倫理の国際的なガイドラインはすでにあります。
代表的な国際的ガイドライン
- ニュルンベルク綱領(1947)
人体実験についての10の倫理原則。絶対的倫理規範としての「被験者・自発的同意」。 - ヘルシンキ宣言(1964年)
世界医師会が制定。「研究の利益より被験者の福祉を優先」が原則。 - ベルモント・レポート(1979年)
はじめて研究倫理の体系的な枠組みを示した。国内外の倫理ガイドラインに影響 - CIOMSガイドライン(1982年)
ヘルシンキ宣言の途上国への適用(WHO協力)。
現在、国際的なガイドラインの基礎になっている「ベルモントレポート」には、研究倫理の3原則として、以下のことが挙げられています。
人格の尊重
(研究参加者の人格を尊重し、研究目的やリスクをしっかりと伝える等)
善行
(社会的意義が少なく、またリスクの高すぎる研究は行わない等)
正義
(研究参加者を選ぶ際は、単に集めやすいという理由で選んではいけない等)
“こんなことは当たり前じゃないか”と思う人もいるかもしれません。しかし、複雑多岐にわたる研究内容や行為一つ一つについて、“これは研究倫理に違反しているか、いないか”を一人の研究者が判断し続けるのは、時間的にも精神的にも限界があります。
そこで重要になってくるのが、第三者の目である「倫理委員会」の存在です。
倫理委員会は研究機関ごとに設けられ、そこで行われる研究が倫理的に正しいか検討、審査しています。 また、現在その中核を担う「中央倫理委員会」を設置する動きも進んでいます。 中央倫理委員会制度が確立すれば、倫理審査の質も向上し、多施設共同研究においても、複数の倫理委員会による重複審査が避けられるため、研究開始のスピードが速まるなど、様々なメリットが期待できます。
いま日本の医学研究の世界においては、こうした倫理委員会によって導かれる倫理指針こそが、ヒトを対象とする医学研究の“ルールブック”と目されているのです。
5. 「研究倫理」に関心をもつこと
ここまで述べてきた通り、医療や研究がより高度化し、一般社会とも身近になってきたことで、“いつの間にか自分(または細胞、遺伝子情報など)が研究対象になっていた” という事態も起こり得るようになりました。
つまり、誰にとっても、研究倫理は他人事ではないということ。
一般の方は自分の体や個人情報を守るために、研究者にとっては自身の研究を守るために、研究倫理に関心を持ち、遵守することが大切なのです。