第三回 認知症研究と研究倫理

はじめに

認知症研究の第一人者である東京大学大学院医学系研究科教授(老年病学・加齢医学/東京大学医学部附属病院 副院長 老年病科科長)の秋下雅弘先生

東京大学医学部 研究倫理支援室では、研究倫理を取り巻く現在の動向を調査し、今後の研究倫理はどうあるべきかを検討するため、様々な業界の有識者へのインタビューを行っています。

第3回目となる今回は、認知症研究の第一人者である東京大学大学院医学系研究科教授(老年病学・加齢医学/東京大学医学部附属病院 副院長 老年病科科長)の秋下雅弘先生に、認知症を取り巻く現状と、認知症患者を対象とする研究倫理のあり方について、伺いました。

1. 認知症研究の現状と課題

認知症研究の第一人者である東京大学大学院医学系研究科教授(老年病学・加齢医学/東京大学医学部附属病院 副院長 老年病科科長)の秋下雅弘先生

認知症と言えば一般的なイメージは「アルツハイマー型認知症」でしょう。確かにこれは認知症で最も多い疾患で、全体の6割を占めます。認知症の前段階である「軽度認知障害」(MCI=Mild Cognitive Impairment)も、多くがアルツハイマーに移行するので、認知症の臨床と研究の中心はアルツハイマーだと言って差し支えありません。
しかし、「レビー小体型認知症」など原因の異なる疾患もありますから、そこはしっかり分けて考えるべきです。特に臨床では、間違った診断による、間違った投薬で、かえって症状を悪化させてしまうケースもあることに注意が必要です。

さらに大きな問題点は、認知症の治療がアンメット・メディカル・ニーズ(※)であるということ。つまり、今ある4種類の治療薬は、いずれも病気の進行を遅らせるだけで、根本的な治療薬ではないということです。
極端なことを言えば、介護施設に入る時期を少しだけ先に延ばすことはできても、“この薬よく効きましたね”とか“だいぶ治りましたね”とはなかなか言えないのです。他に良い薬がないから出していると考える医師もいるのが正直なところです。

※いまだに治療法が見つかっていない疾患に対する医療ニーズのこと。

そしてもう一つ。
アルツハイマーの治療では、前段階から病気の原因であるβアミロイドというタンパク質の蓄積を見つけて早期介入する必要が言われていますが、残念ながらそれをきちんと検出するバイオマーカーの開発が遅れています。有ることは有るのですが、費用が高すぎて一般診療の中には入ってきていません。
ただ、見つけたところで根本的な治療方法がない現状では、医療現場は混乱するだけかもしれません。“このままだとアルツハイマー型認知症になりますよ。でも治療法はありませんよ”と言われても、“じゃあ、どうしたらいいんですか?”という話ですからね。

しかし、根本的な治療方法がなく、効果がはっきり出るような薬がない現状だからこそ、認知症を研究する意義は大きいと思います。
今、高齢化に伴い認知症の方が非常に増えてきていて、このままでは医療・介護費が増加したり、親の介護のために働き盛りの方が早期退職して生産性が落ちたり働き手が減るなど、社会全体に大きな負担をもたらすことが懸念されているからです。
我々研究者の責任は重大です。

創薬のターゲット(対象となる病理)ははっきりしているんです。
脳に溜まったβアミロイドを除去、あるいはβアミロイドの合成を抑えて溜まらないようにすればいいのですが、それがなかなか上手く行きません。
しかし、βアミロイドがダメなら別のタウというタンパク質と、ターゲットはたくさんありますから、根気よくやっていけば、今ある薬よりは良いものが出てくるのではないかと期待しています。

2. 家族のケアや社会との関わり方も研究対象

認知症研究の第一人者である東京大学大学院医学系研究科教授(老年病学・加齢医学/東京大学医学部附属病院 副院長 老年病科科長)の秋下雅弘先生

認知症の研究で特徴的なのは、認知症の患者さんを介護する“家族”のケアも研究対象に含まれることです。認知症に関する国の指針「新オレンジプラン」(※)も、地域が連携して認知症の人と介護する家族を支えていこうというのが趣旨です。

※厚生労働省が“認知症の人が住み慣れた地域の良い環境で自分らしく暮らし続ける”ために、2012年9月公表の「オレンジプラン」を改め、2015年1月に新たに策定。正式名称は「認知症施策推進総合戦略」で、7つの柱により構成されている。

例えば、私はポリファーマシーという多剤(併用)の問題をずっとやってきていますが、ポリファーマシーで見られる薬物有害事象の問題に加えて、認知症の場合はどっさり薬を出しても本人は自分で飲めないため、家族が一生懸命飲ませることになり、それは大変な作業です。
つまり、認知症の進行予防に良いからといって“この薬を飲んでください”“運動させてください”“こういう栄養をとってください”と色々押し付けることは、家族を追い詰めることにつながりかねません。ですから、なるべく家族の負担にならない用法の薬の開発や治療方法などを考えることも、認知症の研究では重要なんです。

さらに、患者さんの家族と地域の関わり方も大切な研究テーマです。家族の負担を減らし、孤立を防ぐためには、地域と上手に関わっていく必要があるからです。

高齢者と地域との関わりは、これからの日本社会全体にとっても重要な課題です。認知症の研究は、ある意味、時代の最先端を行っていると言えるかもしれませんね。

3. 認知症研究の倫理上の問題点

認知症の研究が難しいのは、患者さん一人だけでは研究にならないということです。意思の疎通が図りづらいですからね。本当は、認知症になりかけている独居高齢者の方を対象にしたいのですが、そうした方は、そもそも一人では診療に来ることもできません。

したがって、認知症の方を相手に研究する場合には、現実には、介護する家族がいる方に限られてしまいます。その場合は、家族に対してどう説明するかが大事になってきます。ただでさえデリケートな病気なので、研究協力をお願いするのにも慎重さが求められるからです。
まず何回か来ていただき、こちらのことをよく分かってもらい、“この先生だったら安心だな”という信頼関係を作れたら、初めて「実は今こういう治験・研究をやっているのでぜひ参加されませんか?」と切り出すなど、十分な時間をかけています。

それでも、こちらは研究に入っていただきたいと思っているので、ちょっと強引に押し切ってしまったかなと感じる時もあります。そういう場合は得てして、次に来院された時、ご家族が“やっぱり、やめさせていただきます”と言ってきます。そうなると参加していただくよう説得するのは非常に困難になります。
研究から脱落するだけならいいですが、診療にすら来てもらえなくなるとお互い不幸ですから、そこは慎重に慎重を期すようにしています。

無事同意を得て、研究を進めていっても油断はできません。
認知症の治療は思ったような効果が得られにくいので、“薬を飲み、しょっちゅう検査しているけど、ぜんぜん良くならないじゃないか”という落胆とか、場合によっては不信感を抱かれてしまうこともあるのです。
特に高齢者の方は、医療に過度な信頼というか、病院に行けばなんとかしてくれると思っている方が多いので、その傾向が強いですね。“この医者は腕が悪い”と思ったら、治験についても“俺は実験台か”と心を閉ざしてしまいます。
結局は、いかに患者さんやご家族との間に“信頼関係”を築くかが大事になってきます。

4. 認知症研究の倫理審査の重要性

認知症研究において、倫理審査は重要だと思います。繰り返しになりますが、認知症の方というのは社会的に弱い立場にあり、自分で適切な判断を下すのも難しいからです。研究協力をお願いする場合、強引だと不信感を抱かれてしまう一方、言葉巧みに誘導すればできてしまうという危険性もあるわけですからね。
私も、本当に意義や目的を理解して研究に参加されているのか?結果的に納得しないまま研究に参加させてしまっているのではないか?と不安になる時があります。

そうした、被験者の同意に関する倫理的な問題を防ぐには、第三者の介在ということも有効ではないかと思っています。ある程度認知症の知識を持っている後見人のような方の立ち会いのもとで研究内容を説明し、その上で“これなら研究に参加しても良いのではないか”と言ってもらえれば、こちらもホッとします。
まだそうした事例はありませんが、いつか制度化されるといいですね。

認知症研究の第一人者である東京大学大学院医学系研究科教授(老年病学・加齢医学/東京大学医学部附属病院 副院長 老年病科科長)の秋下雅弘先生

あまり研究に慣れていない介護者の方にも研究に協力してもらっていたりするので、研究方法の設定には限界があります。そこで審査の際に、例えば対象や介入方法、評価・測定方法、評価期間など研究デザインの厳密性を求められると辛いところがあります。
評価指標についても、認知症研究においては本人のQOL、つまり満足感や症状が改善ないし安定しているかということが大切な指標なのですが、その成果は目に見えづらい。認知症の人に“あなたは幸せですか?”と聞いてもなかなか判りませんからね。
つまり、どのような評価方法、アウトカムが正解なのか判らないのが認知症研究の特徴なので、研究デザインが描きやすく、新しい治療法や新薬といった形で成果が見えやすいiPS細胞研究などとは違うということを、倫理委員会のメンバーの方々には理解していただければ幸いです。

5. 認知症研究について企業に期待すること

創薬の分野では、なかなか成果が上がらないので、撤退する企業が多いのが残念です。
しかし、デバイス(機器)についてはハードルが低い領域だと思います。
例えば、一人暮らしの高齢者の家のポットにセンサーがついていて、お湯を注ぐと安否確認ができるという商品。ああいった機器は医療機器ではありませんから、倫理検査も通りやすく製品化もしやすい。徘徊する患者さんを見守るためのネットワーク・システムも、通信業者にとっては良いビジネスチャンスだと思います。
結果的に患者さんやご家族のためになるので、ぜひ積極的に参入してほしいですね。

おわりに

私たちは認知症を、医療・介護・看護、全部一体で対処するものとして捉えています。
研究内容もそれぞれの垣根をまたぐ内容が多いのですが、省庁から出る研究費についてはどうしても縦割りになってしまいます。“うちが出すのだから介護報酬の研究をしてほしい”“うちは医療のところしかお金は出さない”などと言われると、ちょっと現場感と合ってないな、と思ってしまいます。

倫理審査の面でも、あまり細かく規定しすぎず、現場の裁量を残して対応していただけると嬉しいですね。
そういう方向になりつつありますが、さらに倫理委員会のメンバーの方の理解が深まれば、我々もより研究がしやすくなり、結果的に患者さんやご家族のためになると思うのです。